心と他者

『心と他者』(野矢茂樹)~自分と他人を再定義する試み

普通の人々は、認識の内容には疑問を持たないでしょう。今目の前にあるパソコンのモニターが、本当に存在しているのかどうか、そんなことを疑問に思う人は普通はいません。
しかし、改めて「君は、目の前に見えているモニターが、実在するということを証明できるか?」と聞かれてしまうと、首をひねってしまうでしょう。

『心と他者』も、まずはこういった認識の話から始まります。野矢茂樹は、最終的に反論を試みることにしながらも、ひとまずは認識の問題を従来の立場に沿って考察を進めます。

心と他者

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■知覚と幻覚の違い

心と他者でも引き合いに出されていますが、道ばたに落ちている縄が蛇に見えることもあります。床に落ちている黒い塊が、夏場に出てくるあれに見えて一瞬動きが止まることだってあるでしょう。これはすぐに「見間違い」として納得します。
でもそれは、どうして見間違いだと思えるんでしょうか。ずっと蛇に見え続けるとしたら、それは本当に蛇なんでしょうか。我々が何かを、ずっと何かに見間違い続けることがあり得ないと言えるでしょうか。

もっと壮大な問いを立てるなら、この世界が作られた世界でないとどうして言い切れるでしょうか。映画『マトリックス』のように、コンピューターによって人間が知覚させられている世界でないという証明はできません。ラブクラフトの小説『クトゥルー』風にいえば、我らの意識は皆ルルイエで眠っているクトゥルーの夢かもしれないのです。

■ただ一つ確かな存在としての自分

野矢茂樹はウィトゲンシュタインの研究者ですので、本書でも頻繁にウィトゲンシュタインが引用されています。むしろ、心と他者はウィトゲンシュタインを発端としており、中心的な役割を担っているとも言えます。

ただ一つ確かな存在としての自分の感覚というのは、自己を扱う議論ではどうしても出てくるものです。
他の人が何を思いどう感じているのかは自分には分からないことかもしれませんが、自分自身が考えたり感じたりしていることだけは確かだという感覚があります。

この、ただ一つだけ確信を持てる存在としての自分を特別視していくと独我論と呼ばれる主張に入り込んだりもします。
世界には自分しかいない。自分以外には心などないし、ただ自分だけが世界の中で特別な存在なのだというような考え方です。

独我論は間違った考え方であることを証明できない、なかなかに強固な思想ではありますが、幸いなことは正しい考え方であることも証明できないことです。
普通は独我論というのはグロテスクに感じ、できるだけ遠ざけたいと思うものですが、それは野矢茂樹も同様で、心と他者においても独我論の魔の手から逃れる道筋を模索しています。

■ネットワークとして構築されるもの

ネットワーク

本書における野矢茂樹の立場は、自分とか心とかいったものは、コミュニティとの関係によって成立するものということになります。対象それ自体に心があるのかどうか、それは分かりようがありません。
しかし、対象とふれあう中で様々なやりとりが発生します。そのやりとりによって、我々は対象に心を感じ取ったり取らなかったりします。

対象が非機械的なそぶりを見せ、あれこいつには自分と同じような心があるんじゃないかという疑いが発生した後、実際に心があるものと思って接してみて、違和感なく過ごせればやはり心があるものなんだろうという確信が強まります。
そうではなく、いややっぱりこれは機械的に反応しているだけなんだとなれば、どうもこれには心と呼べるようなものはないらしい。

非機械的なそぶりというのは、自分に対して新しい世界観を提供してくれます。
「こういうときはこうなるのが当たり前」、そう思っている自分に対して、新しい世界が示されたとき、我々はそれを示したものに心を感じ取り始めます。
何かに対して心を強く感じるときというのは、自分自身の世界観・・・野矢さんは意味秩序と呼ぶことがありますが・・・に新しい意味秩序が提示されたときです。
そういうときにこそ、自分と対等に心を持つ存在として、対象もまた世界を一定の仕方で見ているのだろうと感じられるわけです。