はじめて考えるときのよう

『はじめて考えるときのように』(野矢茂樹)~考えるを考えてみる本

「考える」とは具体的にどういうことでしょうか。世間で見かける主張としては、「人は言葉を使わずにものを考えることはできない」というものがあります。これが正しいのか間違っているのかは私には分かりませんが、いずれにしても無批判に受け入れてしまうのは不用心です。

はじめて考えるときのよう

https://www.amazon.co.jp/

■計算と思考の関係

1+1はいくつでしょうか? 2ですよね。さて、我々は1+1という問いに対して2という回答を与えるまでの間に、何か言葉を使ったでしょうか。「いちぷらすいちはいくつだろうか」と頭の中で言葉を思い浮かべることはできます。しかしここから「に」という答えを出す過程に言葉はありません。

いえ、1+1は簡単過ぎる上に頻出過ぎて、我々はすでにその答えを暗記してしまっているだけかもしれません。だから解答に言葉を使わないのかも。では、9-2はいくつでしょうか。7という答えを出す過程で、何か言葉を使ったでしょうか。人によっては9-2も記憶してしまってるかもしれません。そういう場合は、なにか、すぐに答えを出せる、記憶していない問題に代えてみてください。

もし言葉を使わずに考えることができないのだとしたら、2という回答は、考えて出したものではないことになります。すると計算には思考は必要ないということになるんですね。

この考え方をすんなり受け入れられる人もいると思います。そう考えればコンピューターが計算をすることには納得がいきます。コンピューターは計算はするけども、計算に思考は必要ないので、コンピューターは思考はしていないと言えるようになりますので。

■ヘウレーカ!

『はじめて考えるときのように』で野矢茂樹はアルキメデスを引用しています。アルキメデスは古代ギリシアの数学者で、アルキメデスの原理に名を残した偉大な人物です。アルキメデスがその原理を発見したとき、お風呂に入っていたといいます。そして浮力に気づき、

「ヘウレーカ!(分かったぞ!)」

と叫んだそうです。

ヘウレカ!

野矢茂樹はこう言います。

「考えるとは、ヘウレーカの声に耳を傾けることなんだ」

アルキメデスが叫んだとき、アルキメデスの頭の中には言葉は詰まっていたかもしれません。しかしそれは、悩みの類いだったはずです。王様からとある命令を出されたものの、どうやったらいいか皆目見当もつかない。言葉を使って一つ一つ考えを進めていった結果原理にたどり着いたというようなものではなく、ただ悩み、さんざん迷ったある瞬間に、突然答えがひらめいたはずなのです。当時の知識では、論理的に求められるような答えではなかったのですから。

野矢茂樹のいう「考える」とは、自分の内側から突然わき上がってくるこのひらめきを受け取れる状態に、自分の意識を調整することだと言えます。「今日のご飯なんにしよう?」 という問いに対する答えは、突然わき上がってくる「そうだカレーにしよう」というひらめきなのです。「なんにしよう」から「カレーにしよう」までの間に、カレーを導くような言葉は存在しません。

■はじめて考えるときのように

そうしてみると、考えるというのは神秘的な働きです。どうしてそんなひらめきが出てくるのか。どうして突然「カレーとラーメンと牛丼とコーラを混ぜたもの」を思いつかないのでしょうか。いえ、中にはそういうのを思いつく人もいるかもしれませんが。だいたい、ある程度常識的な範囲でひらめくことになっています。ひらめきなんて何でもありのようですが、意外と枠の中にあるんですね。

だから我々は論理によって言葉を使って状況を整理し、理解して、あとは自分のひらめきを信じて内なる声に意識を澄まし、事態を解決してくれそうな答えを待つことになります。
はじめて考えるときのように。